大学生ζの経済教室3.0

日々の生活に潜む経済ネタ等。半分雑談。

時代は、2.0から3.0へ。

最近、「2.0」という文字をやたらよく目にする。

 

新興企業の看板に「〇〇2.0」と掲げてあったり、筆者と同じ高校出身(と最近知った)落合陽一も「リーダー論2.0」がどうとか言っていた気がする。

 

先日も友人Kから、『お金2.0』という本を薦められた。

 

 

【アフィリエイト。踏むような人間になってはいけない。】

 

 

とうとう身近に迫ってきてしまったのだ。得体の知れない「2.0」とかいうヤツが。

 

しかし非常に残念なことに、自分はその手の概念的なモノには全く興味がない。

 

そもそも、「2.0」ってなんなのだろうか。

 

本を読んだことがないので想像になってしまうのだが、まず考えられるのが、「髪の量が2倍になる暗号である」という説である。

 

将来の毛髪への不安から、「2.0」を連呼している。

 

 

素晴らしい。

 

 

確かに、予防というのは何よりも大切だ。

 

が起こってからでは遅いのである。

 

 

しかし、これを友人Kに聞いてみたところ、即座に否定されてしまった。

 

 

 

 

『それはないだろう。ハゲは2倍になってもハゲのままだ。』

 

 

 

 

撃沈。

 

 

 

 

全く分からなくなってしまった。

 

 

しかし興味もなければ本を読んだこともない、そんな私にでもわかるのは、「2.0とかいうヤツが数学に関係している」ということである。

 

そうでなければ、わざわざ「.0」などと付けないだろう。

 

そのくらいの常識は備わっている。

 

 

有効数字、ということだ。

 

中学で習ったゾ。

 

 

埃を被った中学の頃のプリントを引っ張り出してみる。

 

発見。

 

 

定理2.0 三平方の定理

 

 

なるほど、分からん。

 

 

自分に思い浮かぶのは、これで精一杯だ。

 

 

あとは、視力が抜群に良いとか。

 

 

 

ところで最近、自分も時代の波に乗らなければならないような強迫観念めいた何かを感じている。 

 

しかし、「2.0」をそのまま使うというのはまっぴらご免だ。

 

 

このブログを書いている途中にも、以前「DoCoMo2.0」なるキャンペーンがあったことを知った。

 

Wikipediaには、以下のような記述がある。

 

NTTドコモが2007年に発表したブランド。マーケティングの典型的な失敗例として知られる。

Wikipediaより

 

失敗の典型例なんて、非常に縁起が悪いではないか!

 

 

 

それに、「2.0」がナニモノなのか想像できないくらい世間に疎い自分でも、他人の作った波に乗るのでは搾取され続けるだけだということくらいは知っている。

 

自分で何かを作り出さないと、搾取する側にはなれないらしい。

 

 

 

そこで、突然のお願いで大変申し訳ないのであるが、このブログを読んでしまった不幸な皆さんには、問答無用で今日から「3.0」を使っていただくべく、提案をさせて頂きたい。

 

 

時代は、2.0から3.0へ。

 

 

 

この記事がバズって我が弱小ブログへのアクセスが10,000pv/日になるとする。

 

およそ3年で日本国民の10%を支配下に置くことに成功する。

 

 

完璧なフェルミ推定だ。 

 

 

 

「2.0」が「3.0」になるということは、どういうことか。

 

それはすなわち、得体の知れない何かが1.5倍になるということである。

 

 

 

いつだってなにかが1.5倍になる時には、想像もできないような大変な進歩や変化が伴った。

 

 

iPhone5で4インチだった画面は、それから5年が経って発表されたiPhoneXでもなお6インチに達していないし、

 

いくら毛髪の後退した人であってもそれを1.5倍にするというのは大変だ。

 

 

視力が2.0から3.0になるなんていうのは、日本人がマサイ族になるようなものだし、

 

定理2.0が定理3.0になるというのは三平方の定理が中点連結定理になるということだ。

 

 

 

そんなイノベーションを今日、成し遂げるのである。

 

 

大船に乗った思いで付いてきて欲しい。

 

 

時代は、2.0から3.0へ。

 

ようこそ、私の支配下へ。

批判を浴びる新興IT企業、食べログやメルカリのビジネスモデル

批判を受ける”食べログ”

飲食店予約サイト、食べログが世間を騒がせていますね。

 

 

 

 主な反対意見

  • 薄利の飲食業から、ほとんどコストの掛かっていないIT企業が暴利を貪るのはおかしい

 

  • 定額で200円などの課金は横暴で、定率制に変更すべきである

などというもの。

 

一方、賛成意見としては

  • 集客に支払うコストとしては妥当で、嫌ならプログラムに参加しなければよい

といったところです。

 

 

個人的な感想

正直、反対意見はただの感情論にすぎませんから、賛成意見には同意した上でそれでも、ということなのだろうと思います。

 

しかし、個人的には、「この程度の課金は仕方がない」という立場です。

 

 

例えばExpedia、Hotels.comやagodaといったグローバルホテル予約サイトでは、仲介料は10%が相場ですし、

ただショッピングモールへのリンクを踏ませるだけの広告でも、(契約によりますが)販売価格の3%程度の仲介料が生じるのが相場です。

 

したがって、この手の仲介サービス事業者が受け取る対価としては、サイトの集客力、口コミを含む豊富な情報を考慮すれば、正当なものであると言えそうです。

 

そして、ユーザーは利便性を享受しているわけですから、当然 ”本来の料金” に比べて上乗せされた料金を支払うことを受け入れるべきです。

 

 

サイト自体にも批判される隙がある

しかし、食べログが批判を受けるのはもっともです。

 

いくら集客力があるとはいえ、予約だけで200円のマージンを取るという行為に批判を受ける余地が大きいこと自体は否定できないでしょう。

 

また、一見正当な経済活動に見えても、例えばGoogleがEUから多額の制裁金を科されているように、実は公的機関が修正すべき(と判断されうる)寡占状態にある可能性が一定程度あるのも事実です。

 

 

これらの批判に対する解が何なのか、自分には明示はできませんが、

例えば食べログのアカウントとクレジットカードを紐づけ、決済まで行えるようにするだけでもだいぶ印象は異なってくるのではないかと思います。

 

こうすることで、ユーザーには

  • クレジットカードでの(事後)決済が可能となり飲食店利用に際する利便性が高まる

 

飲食店には

  • 現金を扱う場面が減り、資金管理の効率化と低コスト化が図れるほか、最近問題となりつつあるドタキャンへの対策となる

 

食べログには

  • 食べログへのロイヤリティーが高まり、より他社に代替されにくくなるほか利用頻度の向上が見込めるほか、利用者の口コミか否かを容易に判別できるため口コミの精度を高められる

 

といったメリットがあります。

 

また、カード会社は決済額の3%程度の決済手数料を要求しますから、食べログが飲食店へ請求する手数料も、自然と定額制から定率制へと移行するはずです。

 

 

究極的には批判する人の意見は、「現状の食べログのシステムに200円を支払う価値はない」と判断しているということだと思いますが、

ホテル予約サイトに文句を言う人がいないように、これだけ(逆にいえばこの程度)で印象が大きく変わる可能性は高いと思います。

 

 

新興IT企業の存在価値とは

さて、食べログに限らず、例えばメルカリもそうなのですが、正直 ”新興IT企業” の多くが、もてはやされているほどは、というよりも、全く革新性のないサービスのような気がしてならないのです。

 

これについては説明する必要はないでしょう。

 

メルカリはヤフオクによく似たサービスだし、食べログだってただのレビューサイトで、サービス自体に革新性は皆無です。

 

 

『それができていない人がほとんどなだけで、ちょっと考える力と人並みの人望があれば起業はうまくいく』 なんてよく言ったりしますが、ビジネス自体がその程度のもの、ということなのかもしれません。

 

適当に類似するサービスを作って、うまくいけば上場して億万長者になって、それでおしまい、みたいな。

 

 

実業と虚業

予め断っておきますが、自分がある意味恵まれていて、 ”普通に” 仕事をして、 ”普通の” 充実した生活を送れれば良いと考えることのできる環境にいることによるバイアスはかなりあると思いますし、上記はあくまで主観に基づく一意見に過ぎません。

 

 

どちらかと言えば自分は ”伝統ある実業” の方が好きだし、自分がそう思うのと全く同じように ”意識高い系の、いわゆる虚業” の方が好きだという人も当然いることでしょう。

いないと困るとも思います。

 

 

しかし、いわゆる ”上場ゴール” ではなく、持続性のある、これから歴史を刻んでいけるような立派な企業を本当に作りたいのであれば、批判的な立場の人からも少しでも理解を得られるような運営をしないと難しいのではないかと思います。

 

少なくとも、定期的に炎上をして喜んでいるような会社には、真に社会から必要とされる企業として成長することはできないでしょう。 

 

 

 

そういえば、先日面白いTwitterを見かけたので、たまには炎上しそうなコメントでも残しておきましょうか。

 

 

『意識高い系に課金させるビジネスモデルとしては参考になるんだよなー』

社会を支えているのは9割の末端労働者だという話

労働者階級と資本家階級

労働者と資本家――現代の資本主義社会を語る上では、もはやこの対立構図は欠かせません。

 

実際、一部の資本家が、大方を占める労働者を搾取している、というのは事実です。

 

 

このブログを読んでいただくにあたって予め断っておきたいのは、資本家、もしくは経営者が悪であると主張したいわけでは全くないということです。

 

彼らが大きな枠組みとして社会を引っ張っていっているのは事実ですし、普通に尊敬もします。

 

しかし、彼らと同じくらい、その仕組みを縁の下の力持ちとして支える末端労働者も大切だよね、というお話です。

 

 

エリートは末端労働者をバカにする

偽善ぶっているつもりは全くなく、大方の人の周知の事実であるということも分かっています。

 

しかしそれでもこのようにしてブログにしたのは、以下のようなツイッターを目にしてしまったから。 

 

 

 

 

 

 

結論から言えば、どちらが正しいかとかは置いておいて、

田端さんや河野さんではなく、彼らにリプしている側の意見を尊重したい、ということです。

 

 

資本家>労働者なのか?

そもそも、資本家の方が労働者よりも(あるいは、所得の高い労働者の方が低い労働者よりも)エラいというのは、誰が決めたのでしょうか?

 

僕はそんなことは全くないと思うのですよ。

 

 

考えてみれば、一部のカリスマ的経営者を除いては、

多くの著名人だって、大企業や有名な組織に入り、そのブランドの下で右も左も分からない研修初日から給料を貰って、

その貯金と覚えた仕事とブランドで独立をしている、という側面も多分にあるはずです。

 

だから、労働者と資本家というものを、完全に対立させて捉えること自体に全く意味を感じないし、立ち位置がちょっと異なるという程度に過ぎないと思うのです。

 

 

でも客観的に見ると、その僅かな差がかなり大きな差に見えることは事実です。

 

ドラマ『相棒』において杉下右京が、言い訳を繰り広げる犯人に対して

『確かに紙一重かもしれません。でも、その紙一枚を超える人間と越えない人間は、全く違うんですよ!』

と告げたように。

 

 

コンビニバイトの必要性

“エラい人” は言うんです。

「誰にでもできるコンビニバイトで低賃金を嘆くなんて。勉強をしなかったお前の責任だろう」と。

 

しかし、コンビニバイトだっていないと社会は回らないし、(皮肉にもそれが低賃金であるということも含めて)皆が恩恵を享受しているわけです。

 

確かに、代替要員の確保が容易という意味で彼らの言うことはもっともなんです。

 

もっともなんだけれども、それは不要だということを全く意味しないんですね。

 

いなくなったら代替要員が必要ということは、どんなに確保が容易であろうとも、必要だということでしかないんです。

 

もし一人のコンビニバイトが社会からドロップアウトしたら、競争に敗れた誰かがコンビニバイトをするわけです。

 

いくら将来ロボットに代替されるようになると言われようと、いま必要なのは事実ですから。

 

そして、彼らは将来仕事がなくなるかもしれないことを分かっていながら、

相対的に自分達より "社会的に上位にいる人" と比べて低い賃金で、社会の一端を担っている。

 

 

また例えば、飛行機だって同じです。

 

確かに最終的に操縦桿を握るのはパイロットなんだけれども、それはほとんど操縦桿を握っているという文字通りの意味しかなくて、

 

本当に飛行機を飛ばしているのは、地上スタッフ、夜勤で整備をした整備士、本社の社員、そして彼らを然るべき場所へ運んだ鉄道会社の社員、道路工事をした土木作業員etc…の全員なんですよね。

 

彼らから直接、あるいは間接的にバトンを受け継いで、たまたまそのアンカーであるというだけに過ぎない訳です。

(もちろんそれに乗って出張するお客さんがいれば、さらに繋がっていくことになります。)

 

 

労働者階級こそ社会基盤である

一つ確かなのは、全員が労働者を使う側に回ることのできる社会など、到底実現は不可能だということです。

 

全員が相対的に高い賃金を得ることも不可能です。

 

 

だからこそ、紙一重の差によって――例えばそれは(誰かが落ちた代わりに運良く)大学受験に合格したからかもしれないし、ちょっと生まれが良かったからかもしれないけれども―― "今の社会で良いとみなされる" 立場を得た人が時々発する、そうでない大多数をバカにするような意見には賛同できないと思うのです。

 

 

残念ながら、そして悔しいことに、今のネット社会では知名度さえあれば、たとえそれが炎上によるものであっても、彼らはお金を稼ぐことができるのです。

 

ムカつきますよね。

 

ムカつくから、ネット上で醜い罵り合いが繰り広げられることになります。

 

 

 "現在恵まれた立場にいる人" は、もうちょっと、思いやりとか、

末端労働者に、そしてある面で競争に負けた人に支えられて自分が存在しているということの意味を考えなくてはいけないのかなぁと思います。

日本もチップ制度を導入すべきと考えるワケ

チップ制度の意義

突然ですが、チップ制度、ご存知ですか。

 

そう、アメリカへ旅行に行くと支払わされる、アレです。

 

日本人の多くは、好印象を抱いていないのではないでしょうか。

 

“なんで明示された定価があるのに、それに加えてさらに十数パーセントものお金を支払わなくてはいけないのか” 、と。

 

ごもっともな意見です。

 

 

そもそもチップ制度って、何のためにあるのでしょうか。 

 

Wikipediaによると ”良いサービスをしてくれたことに対する心づけ” とのことです。

 

 

もちろんそのような側面はあるでしょうが、やはり、最低賃金かそれに準じる時給で働く労働者への賃金補填という面があるということが重要なポイントであると思います。

 

例えばレストランの店員、ホテルの清掃員――彼らは、ほとんどが非正規雇用であり、その賃金も非常に安く抑えられています。

 

そして彼らにとってのチップは、そのまま生活を左右する大切な収入源です。

 

だからこそ心地の良いサービスをしようという意識の底上げにもつながります。それをお金で買ってくれる人がいるからです。

 

 

日本社会の疲弊

翻って日本ではどうでしょうか。

 

「善意が買い叩かれている」、「サービスは無料」、そんな社会です。

 

もちろん、そこには良い面もあるでしょう。

 

 

善意が全て金銭と絡むなんて、そんな社会こそどうかと思いますし、

いわゆる ”道徳心” を嫌う方もいるようですが、個人的には集団社会を構成する上で不可欠なものと思います。

 

 

もしチップ制度が存在したら...

しかし、もし仮にチップ制度があったら、と考えてみましょう。

 

以下の記事から推測するに、ヤマト運輸の配達員の1日あたりの配達個数は、およそ150~200個。

 

 

ヤマト運輸は宅急便の料金を引き上げました(*1)が、仮に値上げを行わないとして、その代わりに受け取りの際に皆が50円をチップとして支払うようにしたらどうでしょうか。

 

(*1) 一例として東京→大阪の60サイズ通常運賃は800円から140円値上げし940円に

 

単純計算で1日当たり7500円~10000円、1か月にして15~20万円が直接配達員の手に入ることになります。

 

 

チップ制度の負の側面

もちろん、チップがすべてを解決するわけではありません。

 

アメリカでは、チップをもらえる仕事はその分があらかじめ考慮された低い賃金が設定されるが故に、

逆に生活が、天候にさえ左右されるような(*2)事態も起きているようです。

 

(*2) 天候が悪いと客足は伸び悩みますから

 

 

また、チップをもらえる職ともらえない職の格差、

 

例えば同じレストランで働くにしてもチップをもらえるのはサービスをする人であってコックはもらえない、

 

などといった問題もあります。

 

 

そのため、チップ制度を廃止して正常な(定額の)賃金を支給しようという動きも広まりつつあるのが現実です。

 

 

 

現代になじむ形のチップ制度とは

そもそも究極に資本主義を突き詰めれば、

レストランの従業員は労働市場の需給によって設定された賃金(おそらく最低賃金とそう変わらない)のみを受け取るべきで、

 

客がそれ以上のお金を支払うのであれば、

一度会社に収めるべきだということになるでしょう。

 

 

そこを、善意での対価という形で直接現金でやり取りをしようという、

ある意味かなり古い仕組みが今日まで残ったのが欧米のチップ制度です。

 

税金の計算も複雑になり、時代に即さなくなっているという面は否めません。

 

 

だから、 ”日本もチップ制度を必ず導入すべき” と言うと多少語弊があるのです。

 

少なくとも欧米型の、上述したような問題も山積みのチップ制度をそのまま今から導入するのはかなり厳しいと言わざるを得ないと思います。

 

 

しかし、チップ制度が担ってきた本来の役目、

 

すなわち低賃金の労働者への賃金補填、また、良いサービスや善意にお金で感謝を表現できるシステムは、

 

今の疲弊した社会の問題点、すなわち格差の拡大や、ドメスティックな単純労働者への賃金下押し圧力(しかし彼らの存在は絶対に必要である)を解消するのにかなり適合性の高いものであるはずで、

 

そのまま葬り去るには惜しいものだなぁと思うわけです。

なぜ食品は毎年一方的に値上がりするのか?

繰り返される食品の値上げ

値上げの春――この季節、毎年のようにこんなフレーズがメディアを飾ります。

 

いわゆる ”実質値上げ” とも言われる内容量の減少、値上げ(時には両方!)はダイレクトに家計へ響くこともあり、食品会社への不満の声も多数聞こえてきます。

 

苦しいときに値上げをするのは仕方がないけど、値下げしろよ、とか。

 

 

 

 

このような意見が出るのは、必然でしょう。

 

安倍首相の答弁がちょっとした物議を醸したように、ジニ係数が上昇しているというデータの存在も記憶に新しいところです。

 

では、なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。

 

 

"失われた30年"の意味

それは、日本がデフレ社会(厳密には消費者物価指数CPIの上がらない社会)を脱することができないからではないかと思います。

 

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(※ 世界経済のネタ帳より引用)

 

日本のCPIは、1990年頃よりかれこれ30年近くも横ばいです。

 

いわゆる、失われた云十年、というヤツです。

 

 

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 (※世界経済のネタ帳より引用)

 

賃金も同様です。

 

 

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(※世界経済のネタ帳より引用)

 

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(※世界経済のネタ帳より引用)

 

その間に中国は40倍、シンガポールは4倍近くも成長しているわけですから、当然相対的に貧しくなるわけです。

 

 

日本のデフレとグローバル化

デフレ社会。

 

食品は値上がりしているのに、です。

 

ここでポイントとなるのが、値上がりしている食品というのは

 ”大手食品メーカーもしくは大手外食チェーンの商品の価格” であって、国産の野菜や卵の値段ではない、ということです。

 

 

大手食品メーカーや大手外食チェーンは、海外からの輸入品を使用したり、システムや人材面でもグローバルな競争環境の中で企業活動を営んでいます。

 

つまり、外国ではどんどんインフレが進んでいくのだから、仕入れ値は基本的には永遠と値上がりし続けるわけです。

 

そう考えると、冒頭で述べた『苦しいときに値上げをするのは仕方がないけど、値下げしろよ』という意見は、

いかにドメスティックな感覚で、無謀なことかに気付くはずです。

 

 

昔に比べて自動車が値上がりして、今や軽自動車すら手が届かなくなった、という意見もよく目にしますが、これも同じ原理です。

 

自動車メーカーにとっては仕入れ値も上がっていくし、人件費だって、人材獲得はグローバルな競争でどんどん上がっていくわけですから、

グローバル企業の商品の販売価格は世界基準で上がっていくのは必然です。

 

 

一例ですが、食品大手味の素の有価証券報告書によると、2017年度の従業員3459人の平均年収は952万円。

しかも同社の所定労働時間は7時間15分と短く、更なる労働時間の短縮にも意欲的です。

 

 

“大企業の一部の社員が高給を独占して、末端労働者の給料は上がらない” という問題も、結局はここに起因するのではないかと思うのです。

 

だって、例えば保育士やBtoCの国内運送業にグローバルな人材獲得競争はないですから。

 

別に保育士をバカにしているわけでも、ラクな仕事だと言っているわけでもありません。

 

あくまでドメスティックな職業に賃上げ圧力が加わらないのは、

日本のデフレという社会構造が変化しない限り必然であるということです。

 

 

そう考えると、タイトルは『なぜグローバル化が必要なのか?』という普遍的な問いに読み替えることもできるでしょう。

 

 

グローバル化は悪なのか

いっそのこと ”鎖国をしてしまえ” という発想になるかもしれません。

 

だって、これだけ格差が広がって多くの庶民の生活が苦しくなってきているのは、グローバル化のせいなんだろう、と。

 

 

ある意味でそれは正論です。

 

おそらく、いわゆる “古き良き昔の日本” と言われるような、穏やかな1億総中流の社会を取り戻せるかもしれません。

 

しかし、それは必ずしも良いこととは言えません。

 

あえて何故かを説明する必要はないでしょう。

 

要するに共産主義ですよね。

 

それが現代の社会になじまないというのは、1億総中流の平和な社会が再び訪れることを夢見る人も含めて、誰しもが理解しています。

 

そして、我々がグローバル化の荒波の中で生まれた様々な利便性を享受しているというのも、また事実です。

 

 

解決策は...?

こう考えると、なかなか難しい問題です。

 

しかし一つ分かっているのは、少なくともこのグローバルな資本主義社会の歯車を止めることは、もはや誰にも不可能であるということ。

 

ある意味、政治が不満のはけ口になるというのは仕方のないことではありますが、

それは、安倍政権の問題でも、もちろん民主党政権の問題でもないのです。

 

 

これからも格差は拡大していくし、このままいけば日本のデフレが止まることもないでしょう。

 

個人的に一番恐ろしいのが、いま世界を牽引しているアジアの新興国で少子高齢化が始まり、世界中が日本のように、もうどうにもならなくなること。

 

 

どうなっていくのでしょうか。

 

しかしあまり遠い未来でもない気もします。

 

逆に考えれば、日本はその社会を引っ張ることのできるような、モデル国家となり得る可能性を秘めているということもできますが……